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種子計画VI-歴史的建造物再利用

立偕チームは「文化は生活の積重ねである」と考えてきました。この信念を持ち、2009年より種子計画を進め、街の中に文化の種をまき、芸術と美学のまなざしで都市文化と生活の形の解釈をもう一度見直しました。3年連続して、「生活周りの芸術」シリーズの展示を開催し、住民の地域や土地に対する関心を喚起しました。のち、2012年からは、さらに広い視野で建築と農耕の次元に及んだ「芸術、建築、生活展」を開催し、「移動美術館」を設立して、都市再生基地を現代アートと都市が対話する空間としました。

建築空間を生活容器と文化イノベーションの起点とする理念から発展して、2014年、立偕チームは「種子計画Ⅵ歴史的建造物の再利用:文化的創作空間」の成果を皆さんと分ち合うこととなりました。「衣食住」を融合した生活美学により、杭州南路二段旧錦町日本宿舎を再生しました。生まれ変わった古い家屋は、台北市文化局のために立偕生活文化チームが修復・経営し、官民一体となって協力し合いました。双方の共通の願いを込めて「楽埔町」(LEPUTING)-楽しく健やかな肥沃な土地。旅人となって都市を探索する時の心の休憩所の意-と命名されました。

  • 過ぎし日の思い出

    優雅で美しい楽埔町は、台湾の大切な生活の思い出が残されています。心を込めて修復された歴史的建物は、時空を超えた回廊を彷彿とさせます。その中を歩き、日本家屋の林木の香りを浴び、スタイルは現代人が創り出した柔らかな美しい芸術です。工・商業社会のリズムの中で、一度は失われた風雅な生活の思いと落ち着きを再現しました

    広大な良田古亭庄

    100年余前、清帝国の版図において、台湾は東南沿岸部の移民開拓の目標であった。主に福建からの先人たちによって台湾西部の平原、浅山、丘陵などの地が開発され、少しずつ各自の生活圏を広げていきました。光緒元年(1875)までに、台北府が正式に設立され、後の日本統治時代の建設を加え、台北は台湾の首都となりました。

    日本統治時代初期、楽埔町が位置する場所に錦町の名ははまだなく、古亭庄と呼ばれていました。古亭庄は多くが田んぼと草地であり、町屋は比較的少なかったことが地図から見てとることができます。「古亭」の名には二つの由来があり、ひとつは、太鼓をたたいてよそ者の侵入を知らせる安全のために設置された鼓亭を由来とするものです。もうひとつは、ここには多くの食物を貯蔵する「古亭畚」(穀倉)があり、自然と古亭と呼ばれるようになったと言われています。「鼓亭」か「古亭畚」か、どちらにしても百年前の台北城外の肥沃な田畑の風景を垣間見ることができます。

    市街改正下の錦町

    二十世紀初頭、日本人は権力を強固にするため、台北に各種公務、治安、軍事機関を設置する一方で、都市計画も展開していました。1910~1920年代、台北城内は、全ての「市」の範囲がついに確認され、錦町という名称もついに現れました!